古代の鉄と神社Ⅲ.
三輪山は「鉄」の山②偉大な「鉄穴」の貴人
『出雲国造神賀詞』には、
「乃ち 大穴持命 の申し給はく、「皇御孫命の静まり坐さむ大倭國」と申して己命の和魂を八咫鏡に取り託けて倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐せ…」とある。つまり、大穴持命(大国主命)は、自分の分身(和魂)としての大物主命を大和の三輪山に鎮座させたと記されている。それはなぜか。三輪山の地質を調べると、鉄分の多い斑れい岩が主であり、砂鉄が採れたのではないかと推測した。三輪山や周囲の遺跡からは弥生時代の遺物とともに鉄滓が発見されている。また、
三輪山の周囲からは「金刺」「金屋」など、製鉄を連想させる地名がある ことから
砂鉄を得て原始的な製鉄を行っていたのではないかと結論した。
大物主命を祀る大神神社のご神体山としての三輪山では、鉄の祭祀が行われていたとの説もある。それらの状況証拠から、
三輪山は「鉄」の山①「鉄穴」の神「大物主命」では、
三輪山は「鉄」の山 と結論付けた。
阿那郷吾名邑の地名の由来 2021年4月10日(土)撮影
当看板は、息長宿禰像(滋賀県米原市顔戸1315)の隣地に立っている。
1⃣鉄穴 かな と鉄穴師 かなじ
鉄穴の山を「鉄穴山 かなやま 」と呼ぶ。いわゆる金山彦命の「金山 かなやま 」であり、鉱山であり、金山 きんざん でもある。「金山」の地名は多い。地元、名古屋市熱田区にも「金山 かなやま 」の地名がある。現在はターミナル駅の地だが、「山」の形状とはなっていない。
古代「鉄」は「砂鉄」から精錬している。
精錬は「鉄砂を含む山」を選ぶことから始まる とされている。鉄砂を含む山を採掘師たちは「鉄穴山 かなやま 」と呼び、砂鉄を採る作業を「鉄穴流し かんながし 」といい、そこで働く人を「鉄穴師 かなじ 」と呼ぶ。訓みはすべて「鉄穴=かな」となる。
鉄穴師は、砂鉄分の多い、削りやすい崖を選んで山から水を引き、崖を切り崩して土砂を水流によって押し流し、砂鉄を含んだ濁った水を流す。重い鉄砂は沈むから、これを採ってたたら炉に入れて精錬する。
大国主命の別名としての大穴持命の名は、この「穴」から来ていると思われる。
2⃣「穴」とは
・穴 アナ 又安部、穴名等に作る。又近江國坂田郡に安那郷あり、共に此の氏と密接なる関係を有する。
・穴國造 穴國は景行紀の穴、安閑紀に所謂阿那國にして、後の安部、深津二郡の地に當る。此國造は國造本紀に「吉備穴國造、纏向日代宮(景行)御代、和邇臣同祖、彥訓服命の孫八千足尼を國造に定め賜ふ」と見ゆ。蓋し景行紀に日本武尊云々、「海路より倭に還り、吉備 に到り、以つて 穴海 を渡る。其處に悪神あり、則ち之を殺す」とありし後に置かれしものなるべし。
・阿那『和名抄』近江国坂田郡の郷名。現滋賀県坂田郡近江町付近か。また備後国安那 やすな 郡は本来は アナ と称し、芦田川河口の海を「穴の海」と称した。また備前、備中と児島との間の海も「吉備の穴海」と呼ばれる。
アナを「崖地を指す地名」と見るのは松尾俊郎の説。
・阿那郷吾名邑 あなのさと あなのむら は、天日槍を祖と仰ぐ渡来人集団 が定住地を求めて一時滞在した地であり、後に 古代豪族息長氏が本拠とした地、息長村とされる。
また、
『姓氏家系大辞典』が説く
和邇氏系吉備穴国造 の本拠は福山市神辺町付近、
息長氏系の吉備風治(品治)国造 の本拠は芦田川流域の福山市駅家町付近。狭い備後の地に和邇氏系、息長氏系が入り組んで居住していたことになる。
息長氏系の吉備品治国造が故地近江の「阿那(穴)」の地名を持ち込んだ とも考えられる。当然、
この場合の「穴」は、
崖地のアナであり、
砂鉄分の多い、削りやすい崖 を指すだろう。
三輪山をご神体山とする大神神社 2019年4月6日(土)参拝
3⃣穴穂と穴太、穴生
次に「穴」の付く地名で思い起こすのは、用明帝の大后、厩戸皇子の生母が
穴穂部間人皇女 と呼ばれ
「穴穂」の地名を冠している。確か彼女は蘇我稲目の女、小姉君を母とし、同母弟に穴穂部皇子と崇峻天皇がいる。しかし、この三名の姉弟は皇位を狙って後の推古帝を襲ったり、臣下に暗殺されたり、大后であるにもかかわらず不義の再婚をしてみたりと「謎」が多いことで知られている。
➡丹後半島独自の伝説ー「穴穂部間人皇后」伝説の真実 『古代地名語源辞典』では穴穂と穴太 あなほ は同義として扱っており、「穴穂命(安康帝)のために置かれた名代、子代部に由来する地名か」としている。
一方、太田 亮は、近江国の穴太は穴穂部とは関係なく、単なる地名とし、地形地名としては アナ(端 はな の転、崖地、急傾斜の先端)+ホ(先端、美称として重複させたものか)だろうとしている。つまり、「端 はな +太 ほ ➡穴穂、穴太」ではないかということらしい。
また、安美、阿南 あなみ の項で、アナは「穴状の窪地」か。あるいは「端」の転で「崖地」か。ミは「あたり」等の意を示す接尾語としている。
「穴穂」については先に「穴穂命(安康帝)のために置かれた名代、子代部かと記したが、『古事記』允恭段の穴穂命の説話に「軽箭 かるや 」がある。
爾輕太子畏而、逃入大前小前宿禰大臣之家而、備作兵器。爾時所作矢者、銅其箭之內。故號其矢謂輕箭也。穴穗御子亦作兵器。此王子所作之矢者、卽今時之矢者也。是謂穴穗箭也。
とあり、軽箭 かるや とは、kal+矢であり、軽 kal は銅を指す。また、「今時之矢」としている「穴穂箭」は鉄製であることを示す。この場合の穴穂は「穴」+「端」ではなく、銅製の「箭」と比較していることから「穴」+「誉 ほまれ 」あるいは「秀」で、「穴」+すぐれた、秀いでた と理解し、すぐれた「鉄」の意になるのではないだろうか。即ち「穴」=「鉄」の理解となる。
以前、
開化天皇ー日子坐王ー小俣王の三代を祀る「小幡神社」 で京都府亀岡市曽我部町
穴太 宮垣内1鎮座の小幡神社を取り上げた。小俣王としての丹波比古多々須美和能字斯王の一族が拠点とした土地が
穴太 であり、小幡神社からわずか350メートル先に穴太寺がある。この天台宗の寺院は古くは「穴穂寺」「穴生寺」とも表記されている。つまり、
穴穂=穴太=穴生 である。日子坐王の児、
丹波比古多々須美和能字斯王の一族が穴太を拠点とした のも頷ける。彼らは穴太の地で産鉄、製鉄を生業としていたと推測する。
それはなぜか。
「穴生衆 あのうしゅう 」をご存知だろうか。彼らは石垣施工を専門とした技術者集団で織豊時代に活躍したと取られがちだが、
「穴生衆」は戦国の世に突如出現したのではない。彼らは既に古墳時代から活躍しており、古墳築造を行っていた石工の末裔として知られている。
石を扱うには常に「鉄」が必要 であり、
石工道具はすべて鍛えた鉄製 でなければならない。即ち製鉄も同時に行っていたと考えるべきである。
穴生 を
Wikipediaで検索すると、①奈良県五條市西吉野町賀名生
あのう ②福岡県北九州市八幡西区の地名がヒットする。
北九州市八幡西区に鉄鋼関係の会社が集中していることは周知の事実であり、古代から製鉄が行われていたと推測されている。また、奈良県の吉野に銅と硫化鉄などの鉱山が集中していることもよく知られた事実だろう。
4⃣大穴持命(大穴牟遅命)の名=偉大な鉄穴の貴人の意
ここまで見て来たように、「穴」=「鉄穴」を指すこと、即ち、「穴」=「鉄」であり、大和の賀名生 あのう や倭(北部九州)の穴生は、鉄の産地 だった。
奈良県桜井市の
穴師坐兵主神社(祭神:兵主大神=八千矛神=大穴持命=大国主命)は、砂鉄採掘者が祀った神社であり、
「穴師」は、砂鉄採掘の専門職(技術者)も指す。石工の穴生部(穴穂部、穴太部)は、
産鉄の部民名 として間違いないと思える。
「穴」=「鉄穴」の意 であるから、『出雲国造神賀詞』や『出雲国風土記』『播磨国風土記』等が記す大穴持命(大穴牟遅神)の名は「偉大な鉄穴の貴人」の意を示すことになる。「大 おほ =美称 」+「穴 あな =鉄穴 」+「牟遅 むち =貴」+ 命 となる。
『出雲国造神賀詞』では、(産鉄の神)大穴持命(大国主命)の継承者、大物主命もまた、(産鉄の神として)聖なる三輪山に斎き祀られたと記されている。
次回は三輪山と大物主神を祀る太田田根子について考えてみたい。